イタリアの4月25日は解放記念日(Anniversario della Liberazione)。国民の祝日に指定されている。
さて、この祝日、どんな意味をもっているのか。
1. 「解放」が意味するもの
解放記念日のいう解放は、第2次世界大戦末期におけるナチスドイツとファシストが占領していたイタリアの解放を意味する。
2. イタリアの第2次世界大戦
少々長くなるが、ここでイタリアの第二次世界大戦参戦から解放に至るまでの歴史をまとめておく。
イタリアは1940年6月10日、フランスおよびイギリスに宣戦布告し、すでに英仏と戦争状態にあったドイツ側に立って参戦した。
すぐにフランスとの戦闘が始まるものの、さしたる戦果もないまま6月22日に独仏が休戦協定を結び(仏降伏)、6月24日にはイタリアもフランスと休戦協定を結ぶ。
一方で、イギリスとの戦争は継続した。しかし、イギリス軍に対するイタリア軍の軍事的劣位は明白で、1940年11月にはイタリア国内ターラントに停泊中の軍艦が英軍の空襲を受ける。
1940年10月からギリシャへの侵攻を開始するも跳ね返される。しかし、ドイツの南進により結局バルカン半島全体が独伊の勢力下に入る。
1941年6月、ヒトラーは突如ソビエトに対し戦争を開始する。
1941年12月、日本が真珠湾を攻撃する。独伊もアメリカに宣戦布告。
1942年8月から始まるスターリングラード攻防戦は1943年3月にドイツ軍の壊滅的敗北で終わる。同地にはイタリアからも部隊が派遣されており、悲惨な目にあう。この戦闘を境にソビエトの反攻が始まる。
北アフリカ戦線は1942年11月にエルアラメインの戦いでイギリスがドイツに完全勝利したことで大勢が決し、1943年5月に独伊部隊が降伏する。
1943年7月9日から10日かけての夜に連合軍のシチリア上陸作戦が実行され、8月17日に全島が制圧される。
7月25日、ファシスト政権が崩壊する。軍人のバドリオを首班とする新政権が発足し、連合軍との休戦交渉を開始。9月3日に無条件降伏する。
9月8日、イタリア降伏を知ったドイツ軍がイタリア半島を占領すべく南下を開始する。同日、連合軍はサレルノに上陸する。国王とバドリオはローマを放棄してブリンディシに逃げ、10月13日、ドイツへ宣戦布告。結果、イタリア半島が南北に分断する。
9月9日、ローマで反ファシズム勢力が結集し国民解放委員会(CLN)が発足する。
9月12日、ドイツ軍はアペニン山脈のグランサッソにあるホテルに幽閉されていたムッソリーニを救出する。9月23日、ムッソリーニは北イタリアの小都市サロを首都とするイタリア社会共和国を建国する(この時点ではまだナチ・ファシスト側がローマを掌握)。
1944年1月22日、連合軍はアンツィオ上陸作戦を敢行。ナチ・ファシスト軍はグスタフ線(Linea Gustav)を設定して執拗に抵抗する。
グスタフ線は1944年5月の連合軍によるカッシーノ攻撃でようやく破れ、ナチ・ファシスト軍はゴート線(Linea Gotica)まで撤退。6月4日、ローマが解放される。
6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸。8月25日、パリ解放。
8月にはフィレンツェも解放される。しかし、その後はゴート線の前で停滞する。
3. イタリアのレジスタンス運動
1943年秋にイタリアが南北に分断した後、北イタリアでは、一度は消滅していた反ファシズム組織が再結成され、戦争継続に反対する人たちを巻き込んだ抵抗運動(レジスタンス)が活発化する。
レジスタンス運動の中で特に武器を手にして軍事的な活動を行う人たちがパルチザンである。パルチザンというフランス語はイタリア語のパルティジャーノ(partigiano)からきた言葉。
もちろん軍事力そのものは正規軍に比べ格段に劣るため、その活動はゲリラ的な手法が中心になる。イタリアの場合、普段は山間部に潜んでいた。
この間、ドイツ軍によるイタリア市民の大量虐殺が繰り返され、ドイツ軍とファシスト軍事政権に対する憎悪が深まる。
1944年2月にはCLNの支部としてミラノに北イタリア国民解放委員会(CLNAI)が密かに組織される。
1945年4月、連合軍はようやくゴート線を突破する。ミラノにいたムッソリーニはドイツ軍とともにコモを目指すが、途中パルチザンに逮捕され(4月17日)、28日処刑される。
そして4月25日、CNLAIが一斉蜂起を呼びかけ、連合軍が到着する前にミラノを自力で解放する。
ドイツは5月7日に降伏し、ヨーロッパでの戦争は終わる。
4. 記念日の制定
4月25日は、1946年4月に政令で「イタリア全土の解放を記念する日」とされ、1949年には国民の祝日とされた(1)。
おわりに
4月25日はナチ・ファシストに「占領」されたイタリアをパルチザンが「解放」したという半分神話化した歴史を再確認する日である。こうした歴史解釈に異を唱える人もいれば、大切に守っていこうとする人もいる。
ナチ・ファシストとの戦いは、イタリアを占領するドイツ軍との「解放」戦争であると同時に、「サロ共和国」と「南部王国」との内戦でもあった。多くの悲劇が起きた結果、イタリア国民の間に深い分断・相互不信が生れた。
その傷はいまだ癒えていないように思われる。
(1) http://www.combattentiliberazione.it/25-aprile-1945
参考:
V. Castronovo, Nel segno dei tempi 3, La Nuova Italia, 2015.
guerra mondiale, Seconda nell’Enciclopedia Treccani.
Perché il 25 aprile è la festa della Liberazione – Il Post
北原 敦『イタリア史 (新版 世界各国史) 』、山川出版社、2008.